更新日:2021年9月21日
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鹿児島市の構成資産には、「旧集成館(反射炉跡、旧集成館機械工場、旧鹿児島紡績所技師館を含む)」「寺山炭窯跡」「関吉の疎水溝」の集成館事業に関連する3つの構成資産があります。
1851年(嘉永4)年、薩摩藩の藩主となった島津斉彬は、仙巌園敷地の竹林を切り開いて反射炉の建設をはじめました。そして、その周辺に溶鉱炉やガラス工場、蒸気機関の研究所などの施設をつくり、これらの工場群を「集成館」と名づけました。集成館事業は、1858(安政5)年の斉彬の急死により一時縮小されますが、1863(文久3)年の薩英戦争でさらなる近代化の必要性を感じた薩摩藩は、洋式機械や蒸気機関を購入し、イギリスとの間で、留学生の派遣や技術者の招聘を行い、積極的な技術の導入を進めました。本市の3つの構成資産は、「集成館」に一連の生産システムがあったことを示すものであり、日本初の西洋式工場群「集成館」は、その後の日本の近代化に大きく貢献しました。
<日本の近代工場発祥の地>
反射炉は、鉄を溶かして大砲を造るためのものです。現在は、1857年に建設され、薩摩在来の石組み技術で精密に造られた2号炉の下部構造が残っています。かつては、この上に高さ16メートルほどの煙突がそびえ立っていました。
<現存する日本で最も古い洋式工場>
1865年に完成した、日本に現存する近代工場として最も古い建物です。「ストーンホーム」と呼ばれる洋風建築ですが、一部には日本建築の様式も見られます。洋式機械や蒸気機関を用い船舶装備用の部品等を製造していました。
<日本で最も初期の本格的洋風建築>
1867年に日本で初めて設置された洋式紡績工場である鹿児島紡績所で技術指導にあたった英国人技師の宿舎として建築されました。日本の洋風建築のうち、現存する2階建住居としては最も初期のものです。
<集成館で使用する燃料を製造>
1858年、反射炉などの燃料として用いる白炭(火力の強い木炭)を製造するために建設されました。集成館に近く白炭に適した木材が多いため、寺山に造られたと言われています。
<集成館の動力水車に水を供給>
集成館の工場で必要な動力(水力)を得るために築かれた水路の取水口跡です。ここから約7キロメートルに渡って導水していました。磯地区にも集成館への水路跡が残っています。
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