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更新日:2024年11月18日
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(期限が過ぎたイベント)
令和7年1月18日に志學館大学原口泉教授による東京国立博物館初代館長「町田久成」を語る講演会を開催します。
松元地域のお茶をはじめとする特産物や新たな魅力を発信することをテーマとしたマルシェ「まつもとまるっとマルシェ」を開催します。
令和6年11月10日(日曜日)
午前10時~午後3時
あいハウジングアリーナ松元(松元平野岡体育館)など
時間:午前10時~午後1時30分
場所:茶山房(あいハウジング補助グラウンド横)
注意:事前申込が必要となります。詳しくは松元農林事務所までお問合せください。
お問い合わせ:松元農林事務所(TEL:099ー278ー5429)
本県の高等学校芸術部門の拠点校である松陽高校美術科生徒の油絵約20作品の展覧会を開催します。ご来場の方はお気に入りの作品に投票することができます。
観覧日、時間は各会場の開館・営業日、時間に従います。
無料
(期日が過ぎたイベント)
令和6年1月21日にかごしま探検の会東川隆太郎氏が東京国立博物館初代館長「町田久成」を語る講演会を開催しました。
松元地域のお茶をはじめとする特産物や新たな魅力を発信することをテーマとしたマルシェ「まつもとまるっとマルシェ」を開催しました。
令和5年11月23日(木曜日・祝日)
午前10時~午後4時(予定)
あいハウジンググラウンド松元補助グラウンド(松元平野岡運動場補助グラウンド)
令和5年9月16日(土曜日)に東京国立博物館初代館長『町田久成』のゆかりの地を散策する史跡めぐりイベントを開催しました。
ただし、小学4年生以下の方は保護者の方と一緒に参加してください
鹿児島市(旧松元町)の石谷を領していた町田家(新納家(宮崎県木城町)・樺山家(宮崎県三股町)と共に島津氏三大権門の一つ)の長男として1838年に生まれた方です。
文久2(1862)年8月21日に現在の「神奈川県横浜市鶴見区生麦」付近で薩摩藩主の島津茂久の父で藩政の最高指導者・島津久光の大名行列に遭遇し、あたりかまわず無遠慮に動いた騎馬のイギリス人たちを殺傷(1名死亡・2名重症)した事件です。
生麦事件を受けて、イギリスは薩摩藩に対して犯人の処刑と賠償金25,000ポンドの支払いを要求し、薩摩藩がこれを拒否したため、1863年6月27日イギリス艦隊7隻が鹿児島に来航し始まった戦争です。戦闘が始まる以前にイギリス側が幕府から多額の賠償金を得ているうえに、鹿児島城下の民家への砲撃射撃は必要以上の攻撃であったとして、イギリス議会や国際世論はイギリス艦隊のキューパー提督を非難しています。イギリスは講和交渉を通じて薩摩藩を高く評価するようになり、薩摩藩側も欧米の文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、イギリスとの友好関係を深めていきました。
薩英戦争を機に、薩摩藩では島津斉彬が生前に発案した海外留学生派遣計画の実行が急務と考え、海外に通じた人材育成の機運が高まり、1865年2月13日に視察員4名と薩摩藩洋学校開成所(薩英戦争後の藩の近代化政策の一環として、洋式軍制拡充の目的で1864年に創設された藩立の洋学養成機関)を中心に留学生15名が選ばれ、留学渡航の藩命が下されました。
薩摩藩英国留学生である19体の銅像からなり、その一番上に飾られている2人のうちの1人が、「町田久成」です。
よりも上に飾られています。
町田久成らは、1865年17名の青少年を率いて串木野の羽島沖から出航しました。長い鎖国の眠りの中にいた留学生たちにとって未知なる海外への旅は、まさに驚嘆の連続でした。香港の夜景・東洋の玄関シンガポール・ボンベイの高層建築・紅海から見た砂漠・ピラミッド・スエズ運河掘削工事・鉄道・信号機・マルタ島に林立する荘厳華麗な教会・ジブラルタル要塞等々の西洋文化や先進技術は留学生たちに攘夷思想の愚かさを悟らせるには充分でした。
1865年5月28日、二か月余の旅を経て英国のサザンプトンに到着した久成は、英国で二年ほど語学を身に付けながら西洋文明や技術を見極めていきました。ロンドン大英博物館やサウスケンジントン博物館の見学では、深い感銘を受けることになりました。
1867年に開催されたパリ万国博覧会では、久成は薩摩藩の使節として参加しており、薩摩藩は「日本薩摩琉球国太守政府」の名で幕府とは別に展示し、独自の勲章(薩摩琉球国勲章)まで作成するなど、各々が対等の立場を主張して争っています。同年、帰国しましたが、このとき日本国内では古い物を破壊し捨て去ることが、文明開化であるという誤った考え方が流行していました。
1868年に神仏分離令が布告され、廃仏毀釈の流れによって、寺や仏像は破壊され、さらに欧米文化崇拝の風潮で、日本古来の伝統文化財である焼き物・浮世絵・書などが二束三文で海外に流れ出ていく有り様に心を痛めた久成は、私財をはたいて文化財を買い求めたり、文化財修復等の技術者を養成する学校を創設したりしました。
1870年大学大丞になると教育行政と大学南校事務を所掌し、博物館建設に精力的に取り組みます。1871年文部大丞になると「大学南校物産会」開催に漕ぎつけ、天皇・皇后両陛下御覧の機会を得たことがこの後の博物館建設への大きな励みとなりました。この物産会の資料を引き継いで、1872年3月「文部省博物館」の名のもとで、湯島聖堂を会場とした湯島聖堂博覧会を開催します。同年5月、東海・近畿の寺院・神社・城郭等の文化財調査(壬申検査)に携わり、1873年「博物館設置の建白書」を当局に建議しました。
1875年内務大書記官に昇任、同時に初代博物局長(博物館長)に任命されます。1882年3月20日に博物館が上野に移転すると、自分が集めた文化財は全て寄贈しています。同年10月、久成は突然職を辞して、滋賀県法明院という寺で仏門に入ります。
1897年6月、古社寺保存法が制定され、それを見届けるかのごとく1897年9月15日に60歳の生涯をとじました。久成の死後、かれの功績を称えて東京国立博物館の構内に建立された高さ4メートルもの大顕彰碑には、「博物館は君が提議し創設する所なり」との撰文と、久成の心境を偲ぶ漢詩が刻まれています。
2016年11月14日の博物館の日には、東京国立博物館の中庭に久成の胸像が設置・除幕されました。その台座正面の碑銘「初代町田久成館長像」は安倍晋三元内閣総理大臣によるものです。
町田久成がいなければ、多くの文化財が破壊され、貴重な資料が消失していたかもしれません。まさに、明治維新で西洋化が進む日本において、日本古来の文化を守った英雄の一人です。
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