更新日:2024年8月28日
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令和6年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭において捧げられた「慰霊のことば」及び、当日配布されたリーフレットを紹介します。
世界中で数千万人にも及ぶ尊い人命が失われた第二次世界大戦の終戦から、79年の歳月が過ぎ去りました。
今年も終戦の日に、ご遺族をはじめ多くの皆様ご参列のもと、ここ探勝園において第二次世界大戦戦亡者慰霊祭を執り行うにあたり、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。
先の大戦では、将来ある若者が、最愛の家族の幸せ、祖国の安寧を願いながら犠牲となり、また、各地における空襲や広島・長崎への原子爆弾の投下により、多くの無辜の市民の命が奪われ、国土はまさに焦土と化しました。
私どもの郷土・鹿児島市も、大戦末期の昭和20年、市街地のおよそ9割が焼失する激しい空襲を受け、多くの市民がお亡くなりになるという筆舌につくしがたい悲惨な体験をしました。
こうした想像を絶する状況の中、かけがえのない家族や友人を失った深い悲しみに耐え、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族や関係の皆様方に、深く敬意を表する次第であります。
戦後、わが国は一貫して平和国家としての歩みを続け、目覚ましい経済発展を成し遂げました。本市におきましても、ご遺族をはじめ市民の皆様の弛まぬご努力により、見事に復興を果たし、世界に誇りうる自然、歴史、文化を礎に、多様な都市機能が集積し、活力を創出する中枢中核都市として着実な発展を続けています。
私たちが今、享受する平和や豊かさは、戦亡者の方々の尊い犠牲の上に築かれたものであることを決して忘れてはなりません。
一方、国際社会に目を向けますと、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルとパレスチナの紛争は未だ終結の道筋は見えず、現在もなお、数多くの尊い命が奪われ、住民は恐怖と隣り合わせの生活を余儀なくされています。
また、北朝鮮による弾道ミサイル発射はアジア太平洋地域の緊張を高めており、改めて、恒久平和を実現することの困難さを強く感じるとともに、世界中に一日も早く平穏な日々が訪れることを念願してやみません。
今、私たちの目の前に立つ「第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑」は、大戦で亡くなられた世界中の方々を悼むとともに、二度とこのような惨事が起こらないことを祈念し、昭和28年に建立されました。
以来、本市におきましては、この地で慰霊祭を開催し、慰霊碑に込められた、敵味方を問わず世界中の戦亡者を悼むという、他に類をみない博愛精神を語り継いでいます。
また、平成2年に行った「平和都市宣言」のもと、戦災・復興資料の収集・保存に努め、市内各地で「戦災と復興資料・写真展」を開催するとともに、小中学校で学習教材として活用するなど、平和の尊さや戦争の悲惨さ、さらには、復興への努力を後世に伝える取組を続けております。
戦後80年を目前にし、戦後生まれの世代が総人口の8割以上を占める今、戦争という悲惨な歴史の教訓を次の世代に語り継いでいくことがますます重要になってきております。
今を生きる私たちは、改めて、この慰霊碑に込められた思いを次の世代にしっかりと引き継ぐとともに、世界中の人々が多様性や価値観の違いを認め合い、手を携えていくことにより、世界の恒久平和が達成されるよう、不断の努力を続けていくことを、ここに固くお誓い申し上げます。
結びに、戦亡者の御霊のご冥福と、ご遺族をはじめ、本日ご列席の皆様方のご健勝とご多幸、郷土の限りない発展を祈念して、慰霊のことばといたします。
令和6年8月15日 鹿児島市長 下鶴 隆央
本日ここに、ご遺族並びに関係の皆様多数ご参列のもと、第二次世界大戦戦亡者慰霊祭が厳かに執り行われるにあたり、鹿児島市議会を代表いたしまして、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。
苛烈を極めた先の大戦において、戦禍の犠牲となり、数多くの尊い命と貴重な財産が失われました。先人たちの犠牲の重さは、終戦から長い歳月を経た今もなお、私たちの心の碑に深く刻み込まれております。
愛する祖国の安寧と発展を願い、最愛の家族を想いながら散って行かれた先人たちの命の重さを想うとき、万感胸に迫るものがあります。
また同時に、かけがえのないご家族を失われ、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族の皆様のご労苦に、深甚なる敬意を表する次第であります。
戦後、我が国は、国家の再建にたゆみない努力を重ね、今日まで世界に誇る目覚ましい発展を遂げるとともに、平和国家としての確かな歩みを進めてまいりました。
私たちの住む郷土鹿児島市も、ご遺族をはじめ多くの先人たちの懸命なご尽力により、激しい空襲で焦土と化した街から復興を成し遂げ、南九州の中核都市として着実な発展を続け今日にいたっております。
現在、終戦を迎えてから79年の時が流れ、我が国における戦争を体験した世代は国民の1割程度となるなか、戦争を現実のものとして感じられる国民が少なくなっており、悲惨な戦争体験の『記憶の風化』が危惧されております。
また、世界に目を向けますと、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が、2年以上経過した現在も続くほか、イスラエルとパレスチナの紛争による中東情勢の悪化など、今もなお各地で紛争が続いております。
そのような状況のなか、私たちは、現在享受している平和と繁栄が、戦渦に倒れた多くの方々の尊い犠牲と苦難の上に築かれたものであることを、今、改めて強く認識する必要があります。
そして、あの壮絶な先の大戦を単に歴史的事実としての理解に留めるのではなく、二度と繰り返すべきではないということを、今を生きる世代、また、これからの世代へと語り継いでいくとともに、この平和で豊かな愛すべき郷土を、100年、200年先の未来へと確実に引き継いでいくことが、現代を生きる私たちに課せられた責務であると考えます。
本日、終戦の日を迎えるにあたり、私たち一人ひとりが、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて深く心に刻み、先人たちに命がけで守っていただいた我が国の安寧や、郷土鹿児島市のさらなる発展はもとより、世界中から争いが無くなることを願い、世界恒久平和の実現に向け、これからも不断の努力を続けていくことを堅くお誓い申し上げます。
結びに、尊い命を捧げられました御霊の永久の安らぎと、ご遺族並びにご参列の皆様方のご健勝、ご多幸を心からお祈り申し上げまして、慰霊のことばといたします。
令和6年8月15日 鹿児島市議会議長 川越 桂路
第二次世界大戦で亡くなられた戦没者の方々に、慰霊の言葉を捧げます。
戦没者の方々やそのご家族は、戦争のことをどう思っていたのでしょうか。本当に「お国のために」と思って戦地に向かわれたのでしょうか。
私の祖父は、戦争体験者で昨年92歳で亡くなりました。祖父は、いつも笑っていて、生きる活力に満ちあふれていた人でした。わたしは、そんな祖父から日本で起きた戦争について話を聞くことがありました。
祖父が生まれたのは、1930年です。戦争の真っ只中でした。祖父は、15才の頃、知覧の特攻隊への入隊を志願したそうです。明るい祖父が、それもわずか15歳という年齢で特攻隊に志願していたなんて、信じられませんでした。しかし、そんな祖父が特攻隊に志願するほど、日本の戦況は厳しく、お国のためになりたいと考えていたのです。
わたしは、若い特攻隊員が家族にあてた遺書を見たことがあります。特に印象に残ったのは、「お母さん、僕は国を守るために行ってきます。どうか元気でいてください。弟たちの面倒を見てください。」という文章でした。彼の決意と家族への思いが込められたその言葉を聞いたとき、わたしは胸が締め付けられるような思いになりました。どれほどの覚悟をもって特攻に向かったのか、愛する家族と別れなければならないことがどれだけ辛かったか。
国のためになると信じて戦地に向った方々のことを思い浮かべると、涙が込み上げてきます。戦没者のご家族はどんなに悲しく、辛かったことでしょう。いつも身近にいる方が戦争に行って亡くなられたら、立ち直れないほど深い心の傷を負うに違いありません。
戦争は、ただ兵士だけでなく、一般市民にも多くの苦しみを与えました。
社会科の授業で、鹿児島の空爆の写真を見ました。今の鹿児島とは思えないほど、焼け野原になった様子を見て、ただただぼう然としてしまいました。空襲警報が鳴り響く中、人々は必死に避難場所を探し、家族を守るために走り続けました。また、市内の小学校や公共施設も爆撃の対象となり、多くの子供たちや女性が命を落としました。このような悲劇が、鹿児島の各地で繰り広げられていたのです。
戦争は数えきれないほどの命を奪い、たくさんの方々の心に一生忘れられない絶望と苦しみを植え付けます。わたしたちは、戦争の悲惨さを直接体験していません。だからこそ戦争の恐ろしさを学び、平和のために努力することがわたしたちの責任であると考えています。戦没者の方々が犠牲になったことを無駄にせず、過去に日本で起きた残こくな戦争というものを後世へと語り継いでいくことで、平和な日本をこれからも守り続けていくことが大切だと思います。
今こうしている間にも、様々な国で戦争があり、たくさんの方々が亡くなっています。辛い思いをしている人々のことを考えると、居ても立っても居られないような想いになります。
『戦没者の皆様、おかげさまで2024年の日本は平和で、今こうして私たちは元気に生きております』
私が戦没者の皆様だったら、と、想像すると、自分が命をかけてまで守った国民には、いつまでも幸せに暮らしてほしいという想いになることでしょう。現在の平和な日本は、たくさんの方々の犠牲の上に成り立っていることを、私たちは決して忘れてはいけません。
戦没者の皆様のことを決して忘れることなく、国のために命をかけてくれた戦没者の方々に感謝しながら、平和な「今」を生きることが「慰霊」になるのではないでしょうか。
私はこの考えを胸に、平和な「今」を守り続けていくことを誓います。私の気持ちが少しでも皆さんの心の癒しとなればと祈り、慰霊の言葉とさせていただきます。
令和6年8月15日 鹿児島市立名山小学校 6年 大山 花
令和6年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭の開催に当たり、慰霊のことばを申し上げます。
昨今、異常気象により蒸し暑い日々が続いています。79年前の今日を生きていた人々はどのような気持ちでこの日の朝を迎えていたのでしょうか。終戦から約80年が経過してしまっているということもあり、今や戦争を実際に体験した人々は少なくなってきています。僕たち自身も戦争を実際に体験したわけではありませんが、社会科の授業や課外活動を通して、戦争という悲惨な過去を学んできました。
1941年12月8日、日本軍が真珠湾のアメリカ軍を攻撃したことにより太平洋戦争が開戦しました。あの頃の人々はまだあのような悲惨な結果が待ち受けているとは思いもしなかったでしょう。1943年には僕たちとさほど年齢の変わらない若者たちが戦地に招集される学徒出陣が始まり、約2万人の方の尊い命が失われました。戦地にいかず現在の僕たちのように学校へ行き、楽しく笑い合い、美味しいご飯を食べるというような当たり前の日々を送っていれば現在も僕たちと笑い合うことができていたかもしれません。ここ鹿児島県にも特攻隊の出撃基地が多く作られるなど、多くの若者たちが日本の未来を背負い、尊い命を犠牲にしていったことが伺えます。
僕たちが中学1年生のときのことです。学校行事で芸術鑑賞会が行われました。そのときに鑑賞した作品のタイトルは「爺さんの空」。主人公の祖父が特攻隊に招集されていましたが、エンジン機器のトラブルにより飛行機を引き返させ、もう一度出撃基地に戻ったときには、戦争が終わっていたという内容でした。僕はこの作品を鑑賞したとき、戦争では「誰一人」として幸せになれる人はいないと実感しました。その後の研修活動などで、知覧特攻平和会館にも訪問させていただき、実際に特攻作戦に参加された方々の思いや胸の内にふれることができました。戦争という過ちを繰り返さないこと、悲惨な過去を語り継いで多くの世代に繋いでいくことの大切さを身にしみて感じることができました。
さて、現在も多くの国や地域で戦争や紛争が絶えず起こり続けています。日本海を挟んで隣接している北朝鮮と韓国の問題や、2022年に始まったロシアのウクライナ侵攻、ハマスによるイスラエル攻撃、イエメン内戦、リビア内戦など世界中で多くの尊い命が今も犠牲になっています。また、戦争や紛争では多くの子どもたちも危険にさらされています。子どもは大人に比べて環境や教育の影響を受けやすく洗脳状態にしやすいなどの理由から少年兵と呼ばれ、僕たちよりも幼い年齢であるのにも関わらず武器を持たされ、戦地で戦っているという現状も少なくありません。「僕たちの今ある当たり前の日常も当たり前ではない人々がいる。教育を受けたくても受けることのできない子どもたちがいる。十分な食事もとることのできない人々がいる。これが当たり前と諦めてしまう人々がいる。」そんな人々を少しでも減らすことができるように、「希望がある」ということを届けることができるようにするため、僕たちに今できることは何なのか、今一度考えていかなければならないのではないでしょうか。あのような悲惨な過去を繰り返さないため、日本国民だけではなく、世界中に発信していくことが重要になってくるでしょう。
最後に、戦没された方々の御冥福を祈り、慰霊のことばとさせていただきます。
令和6年8月15日 鹿児島市立鹿児島玉龍中学校 3年 髙橋 大和
慰霊祭当日に参列者に配布したリーフレットを掲載します。
リーフレットでは、本慰霊祭や慰霊碑の謂れ、児童生徒の平和へのメッセージ等を紹介しています。
よくある質問
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