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更新日:2025年9月1日

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第二次世界大戦戦亡者慰霊祭

本市では、「第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑」建立以来、8月15日にご遺族をはじめ児童・生徒等に参列いただき、「第二次世界大戦戦亡者慰霊祭」を開催しています。
式典では、慰霊のことばや献花を捧げ、再び戦争の惨禍を繰り返さないことを誓うとともに、敵味方の区別なく戦亡者を慰霊しています。
戦後80年となる令和7年は、例年よりも多くの児童・生徒に参列いただき、世界の恒久平和の達成を願いました。

日時・場所

令和7年8月15日(金曜日)10時~10時45分、探勝園(城山公園内、照国神社隣)

次第

  1. 合唱
  2. 開式
  3. 一同拝礼
  4. 黙祷
  5. 慰霊のことば
  6. 献花
  7. 一同拝礼
  8. 閉式

合唱

鹿児島女子高等学校音楽部の皆様に「ふるさと」と「いのちの歌」を合唱していただきました。

合唱

黙祷

多くの戦亡者の安らかなご冥福をお祈りして、黙祷を捧げました。

戦亡者黙祷

慰霊のことば

市長、市議会議長、児童代表、生徒代表により慰霊のことばが捧げられました。

市長慰霊のことば

鹿児島市長 下鶴 隆央(しもづる たかお)

世界中で数千万人にも及ぶ尊い人命が失われた第二次世界大戦の終戦から、80年の歳月が過ぎ去りました。

今年も終戦の日に、ここ探勝園において、ご遺族や児童・生徒の皆様ご参列のもと、第二次世界大戦戦亡者慰霊祭を執り行うにあたり、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。

先の大戦では、将来ある若者が、最愛の家族の幸せ、祖国の安寧を願いながら犠牲となりました。
私どもの郷土・鹿児島市も、大戦末期の昭和20年、市街地の9割以上が焼失する激しい空襲を受け、多くの市民がお亡くなりになるなど、筆舌につくしがたい悲惨な体験をしました。
こうした想像を絶する状況の中、かけがえのない家族や友人を失った深い悲しみに耐え、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族や関係の皆様方に、深く敬意を表する次第であります。

戦後、わが国は一貫して平和国家としての歩みを続け、目覚ましい経済発展を成し遂げました。本市におきましても、ご遺族をはじめ市民の皆様の弛まぬご努力により、見事に復興を果たし、世界に誇りうる自然、歴史、文化を礎に、多様な都市機能が集積し、活力を創出する中枢中核都市として着実な発展を続けています。

一方、国際社会に目を向けますと、現在もなお戦争紛争は続いており、数多くの尊い命が奪われています。また、ロシアの核兵器使用の脅しなどにより、国際安全保障環境が不安定になるなど、改めて、恒久平和を実現することの困難さを強く感じるとともに、世界中に一日も早く平穏な日々が訪れることを念願してやみません。

今、私たちの目の前に立つ「第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑」は、大戦で亡くなられた世界中の方々を悼むとともに、二度とこのような惨事が起こらないことを祈念し、昭和28年に建立されました。
以来、本市におきましては、この地で慰霊祭を開催し、慰霊碑に込められた、敵味方を問わず世界中の戦亡者を悼むという、他に類をみない博愛精神を語り継いでいます。

本年は、戦後80年、そして、平成2年の「鹿児島市平和都市宣言」から35周年という節目の年になります。
本市では、記念事業として、長崎市との共催により「ナガサキ原爆展と鹿児島市の戦災と復興資料・写真展」を開催しているほか、中学生を広島市に派遣する「ヒロシマ平和学習派遣事業」を実施するなど、戦争の悲惨さや平和の尊さ、復興への努力を後世に伝える取組を続けております。
本日、お配りしたリーフレットの児童生徒からのメッセージにあります「戦争による惨劇を繰り返す未来が絶対にあってはならない」「私たちができる行動で平和への思いを示していく」「毎日を大切に生きていく」などの言葉に私自身感銘を受けました。
戦後生まれの世代が総人口の9割近くを占め、戦争の記憶の風化が強く懸念される今、戦争の教訓を次の世代に語り継ぐことは、私たちの大きな責務です。
今を生きる私たちは、この慰霊碑に込められた思いを次の世代に引き継ぐとともに、世界中の人々が多様性や価値観の違いを認め合い、手を携えて世界の恒久平和が達成されるよう不断の努力を続けていくことを、ここに固くお誓い申し上げます。

結びに、戦亡者の御霊のご冥福と、ご遺族をはじめ、本日ご列席の皆様方のご健勝とご多幸、郷土の限りない発展を祈念して、慰霊のことばといたします。

令和7年8月15日 鹿児島市長 下鶴 隆央
 

 

議長慰霊のことば

鹿児島市議会議長 川越 桂路(かわごえ けいじ)

本日ここに、ご遺族並びに関係の皆様多数ご参列のもと、第二次世界大戦戦亡者慰霊祭が厳かに執り行われるにあたり、鹿児島市議会を代表いたしまして、戦亡者の御霊に謹んで哀悼の誠を捧げます。

苛烈を極めた先の大戦において、戦禍の犠牲となり、数多くの尊い命と貴重な財産が失われました。先人たちの犠牲の重さは、終戦から80年という長い歳月を経た今もなお、私たちの心の碑に深く刻み込まれております。

愛する祖国の安寧と発展を願い、最愛の家族を想いながら散って行かれた先人たちの命の重さを想うとき、万感胸に迫るものがあります。
また同時に、かけがえのないご家族を失われ、幾多の苦難を乗り越えてこられたご遺族の皆様のご労苦に、深甚なる敬意を表する次第であります。

戦後、我が国は、不屈の精神で国家の再建に取り組み、世界に誇る復興と発展を遂げるとともに、平和国家としての確かな歩みを進めてまいりました。
私たちの住む郷土鹿児島市も、ご遺族をはじめ多くの先人たちの懸命なご尽力により、激しい空襲で焦土と化した街から復興を成し遂げ、南九州の中核都市として着実な発展を続け今日にいたっております。

戦争を経験した昭和、戦争を経験しなかった平成の時代を経て、終戦から80年を迎え令和となった現在、我が国における戦争を体験した世代は人口の約1割と大きく減少し、悲惨な戦争体験の『記憶の風化』が危惧されております。
また、世界に目を向けますと、ウクライナとロシア、また、パレスチナとイスラエルなど、依然として紛争や対立が絶えず、平和の実現がいかに困難で尊いものであるかを、改めて痛感させられます。

そのような状況のなか、私たちは、現在享受している平和と繁栄が、戦渦に倒れた多くの方々の尊い犠牲と苦難の上に築かれたものであることを、今、改めて深く認識する必要があります。
そして、あの壮絶な先の大戦を単に歴史的事実としての理解に留めるのではなく、二度と繰り返すべきではないということを、今を生きる世代、また、これからの世代へと語り継いでいくとともに、この平和で豊かな愛すべき郷土を、100年、200年先の未来へと確実に引き継いでいくことが、現代を生きる私たちに課せられた大きな責務であると考えます。

本日、戦後80年となる節目の日を迎えるにあたり、私たち一人ひとりが、戦争の悲惨さと平和の尊さを改めて強く認識し、先人たちに命がけで守っていただいた我が国の安寧や、郷土鹿児島市のさらなる発展はもとより、世界中から争いが無くなることを願い、世界恒久平和の実現に向け、これからも不断の努力を続けていくことを堅くお誓い申し上げます。

結びに、尊い命を捧げられました御霊の永久の安らぎと、ご遺族並びにご参列の皆様方のご健勝、ご多幸を心からお祈り申し上げまして、慰霊のことばといたします。

令和7年8月15日 鹿児島市議会議長 川越 桂路
 

 

 

児童慰霊のことば

児童代表 山下小学校6年 柴田 桜(しばた さくら)さん

私たちは、ここに集まり、戦争で命を落とされた方々の御霊に深い哀悼の意を表します。

昨年の夏、私は家族と共に沖縄のひめゆりの塔を訪れました。そこで、私と同じくらいの年齢の女の子たちが兵隊さんの看病をしていたこと、多くの命が失われたことを知りました。生徒が書いた手紙の中に、「死ぬなら即死がいい。」と書かれている文字を見つけ、言葉を失いました。私は今まで、「死」について考えたことなんて一度もなかったからです。死ぬとするなら、痛い思いをせずにすぐに死んでしまいたいだなんて、怖い思いで毎日を過ごしたのだろうなあ。きっと泣きながら手紙を書いたのかもしれない。そう考えると、心がぎゅうっとしめつけられる思いがしました。

また、慰霊碑には戦争で亡くなった生徒や先生たちの名前がすき間なくびっしりと書かれていました。じっくり見ていくと、その中に私の友達と同じ名前や苗字を見つけました。「もしかしたら、あの子の先祖かもしれない。」、「私と同じ苗字の人もいる。」そう思った時、胸がドキドキしてきました。私たちと同じように学校に通い、友達と他愛もないことで笑い合う姿が戦時中もきっとあったはずです。そんな人たちの名前がきっとここには並んでいるのだろう。そう思ったとき、戦争とは遠い世界の知らない人の話ではなく、自分たちの身近にある問題なのだと感じたのです。

5年生の二学期には、国語の学習で「たずねびと」という物語を読む学習がありました。この物語を読んだとき、「あっ。沖縄と同じだ。」とはっとしました。この物語は、主人公の「楠木綾」が原爆供養塔納骨名簿で見つけた同姓同名の「楠木アヤ」に広島に会いに行くお話です。たった一つの爆弾で何万人のも人がなくなったことを知り、亡くなった同じ名前の「アヤ」の命も受け継ぎながら、大切に毎日を生きていきたいと最後に決心する「綾」と沖縄での自分との姿が重なりました。作者の朽木祥さんは、きっと戦争で亡くなった人がたくさんいて、その人たちの分まで戦争で亡くなった人のことを思って、自分の命を大切に生きてほしいという思いを込めて、この作品を書いたのではないかなと私は感じました。

また、現在放送中のNHKテレビ小説「あんぱん」でも戦争の様子が描かれています。特に、戦時中に食べ物がなく、みんなが空腹で苦しんでいた場面が印象に残っています。ドラマの中でやなせたかしは、卵のカラを食べていました。私だったら、たまご焼きに少しカラが付いているだけでもいやだなあと思ってしまいます。その時、ひいおばあちゃんの話を思い出しました。ひいおばあちゃんは子供のころ、食べ物がなくて「お腹が空いて寝れなかった。」と話していました。「あっ。鹿児島も同じだ。」ひめゆりの塔と「たずねびと」での想いがつながった瞬間でした。私たちの生まれ育つ鹿児島にも戦争の大きな被害が及んでいたのです。やなせたかしも食べないと死んでしまうから、どれだけまずいものでも食べていたのです。「おいしい」、「おいしくない」ではなく、「食べられる」、「食べられない」の基準で食べられそうなものを食べていたのだろう。「ひいおばあちゃんも同じだったんだ。」そう考えると、自分の想像以上の戦争の現実が見えてくる、そんな気がしました。戦争は、沖縄にも広島にもここ鹿児島にも大きな傷跡を残したのです。

私たちは、戦争の悲惨さを忘れず、平和の大切さを心に刻むことが重要です。ここに集まった皆さんと共に、戦争で命を落とされた方々の御霊に、心からの祈りを捧げます。私たちの祈りが、平和への願いとなり、私たちの世代、未来の世代に平和な世界を残すことを誓います。

令和7年8月15日 鹿児島市立山下小学校 6年 柴田 桜
 

 

生徒代表慰霊のことば

生徒代表 長田中学校3年 桑園 もも花(くわぞの ももか)さん

令和7年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭の開催にあたり、慰霊のことばを申し上げます。

玉音放送で迎えた終戦の日から、今日で80年が経過しました。当時の人々は戦争の終結にどのような思いを抱いたのでしょうか。あの日から今日まで、私たちは戦争の記憶と向き合い、平和の尊さを学び続けてきました。

第二次世界大戦では、世界中で約80万人以上の尊い命が奪われました。日本も空襲や原子爆弾の投下によって甚大な被害を受け、300万人以上の方々が犠牲となりました。ここ鹿児島市でも8回の空襲を受け、3,000人以上の方が命を落としました。長田中校区である鹿児島駅や城山トンネル付近にも焼夷弾が投下され、一面が焼け野原になったといいます。私たちが普段何気なく歩いているこの通学路にも戦争の歴史が刻まれているのです。
また、鹿児島県内には3か所の特攻隊の基地があります。出撃した人のなかには17歳という若さで、「お国のために」と飛び立った方もいます。私とほとんど年齢の変わらない方々が、大切な人や故郷を守るために、命を捧げていったことに胸が締め付けられる思いでいっぱいです。

長田中学校では、平和学習の一環として修学旅行で長崎の原爆資料館を訪れ、平和を願う千羽鶴を送りました。私は、小学生の頃にも家族で原爆資料館を見学したことがあります。幼かった私は戦争の悲惨さを伝える展示に強い衝撃を受けました。中学生になり社会科で戦争の背景を学び、正しい知識をもって改めて展示と向き合い、命の重さと平和の尊さについてより深く感じることができました。

戦争は多くの命を簡単に奪い、人々の心に深い悲しみを残します。しかし今もなお、世界中では戦争や紛争が絶えることはありません。ロシアによるウクライナ侵攻。2022年から続いており、多くの人々が戦火の中で不安な日々を過ごしています。今この瞬間も世界のどこかで命の危険にさらされている人々がいるのです。大切な人と笑い合うこと。夢に向かって全力で努力すること。温かいご飯を食べてぐっすり眠ること。これらは決して当たり前のことではありません。私たちの暮らす日本が平和であるおかげで、恵まれた日常を過ごすことができています。当たり前のように平和であることは、数多くの犠牲と努力の上に築かれているのだと、改めて感じています。
私は、自己中心的な考え同士の小さな対立が、大きな戦争へつながると考えます。平和な未来をつくるために私たちができること。それは、平和の尊さを伝える書籍や映画などの身近な作品に触れたり、実際に戦争の傷跡が残る場所を訪れたりすることで、戦争の記憶を風化させないこと。命の尊さを知ること。SNSなどのメディアを活用し、戦争という過ちを二度と繰り返してはならないことを未来へ語り継ぐことだと思います。命があることに感謝し、平和な現代があることが当たり前ではないと心に刻み、今を精一杯生きていこうと思います。

最後に、戦争で亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げるとともに、戦争の歴史を後世に語り継ぎ平和な未来を築き上げることをここに誓い、慰霊の言葉といたします。

令和7年8月15日 鹿児島市立長田中学校 3年 桑園 もも花
 

 

それぞれの立場から悲惨な戦争の記憶や平和の尊さを次世代へと引き継ぐことや、世界平和に向けた努力を継続していく決意が述べられました。

献花

参列者から11名の方に代表献花をいただきました。

市長献花 議長献花

1回目代表献花

鹿児島市長 下鶴 隆央

遺族代表 渡瀬 一盛(わたせ くにもり)さん

甲東中学校3年 長井 咲心(ながい にこ)さん

 

2回目代表献花

鹿児島県知事代理 保健福祉部次長 竹村 直子(たけむら なおこ)様

鹿児島市社会福祉協議会 会長 上之園 彰(うえのその あきら)様

名山小学校6年 中山 れいな(なかやま れいな)さん

鹿児島玉龍中学校3年 中 唯華(なか ゆいか)さん

 

3回目代表献花

鹿児島市議会議長 川越 桂路 様

山下小学校6年 市耒 紗彩(いちき さあや)さん

長田中学校3年 末吉 賢大(すえよし けんた)さん

鹿児島女子高等学校3年 森 友那(もり ゆな)さん

 

代表献花に引き続き、参列者全員が献花を行いました。

献花1 献花2

献花3 着座

過去の慰霊の言葉

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令和5年慰霊のことば(PDF:205KB)Open this document with ReadSpeaker docReader

令和4年慰霊のことば(PDF:235KB)Open this document with ReadSpeaker docReader

令和3年慰霊のことば(PDF:219KB)Open this document with ReadSpeaker docReader

令和2年慰霊のことば(PDF:245KB)Open this document with ReadSpeaker docReader

令和元年慰霊のことば(PDF:222KB)Open this document with ReadSpeaker docReader

平成30年慰霊のことば(PDF:214KB)Open this document with ReadSpeaker docReader

 

リーフレット

慰霊祭当日に参列者に配布したリーフレットを掲載します。

リーフレットでは、本慰霊祭や慰霊碑の謂れ、児童生徒の平和へのメッセージ等を紹介しています。

PDF版リーフレット(PDF:2,442KB)Open this document with ReadSpeaker docReader

リーフレット1ページ目リーフレット2ページ目

令和2年開催の様子

戦後75年の節目に開催した令和2年第二次世界大戦戦亡者慰霊祭の様子は以下のリンク先にて動画でご覧いただけます。

式典の様子(パネル展や献花など)(外部サイトへリンク)

慰霊のことば(市長(外部サイトへリンク)市議会議長(外部サイトへリンク)児童代表(外部サイトへリンク)生徒代表(外部サイトへリンク))

合唱放送(鹿児島女子高等学校音楽部による「いのちの歌」)(外部サイトへリンク)

第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑

慰霊碑の建立・由来

慰霊碑は昭和28年12月、第二次世界大戦で亡くなられた世界中の方々を悼むとともに、二度とこのような惨事が起こらないことを祈念するため、第14代鹿児島市長 勝目 清氏により建立されました。
当時は中央公園に建てられましたが、その後、地下駐車場建設に伴い、現在の城山公園内探勝園に移設されました。

「第二次世界大戦敵味方戦亡者慰霊碑」建立の趣旨(慰霊碑横の石碑)

第二次世界大戦では、世界中で二千数百万人の生命が失われたようであります。
その霊をなぐさめるとともに再びかかる惨事が起こらないようにと思ってこの碑を建てました。
旧薩摩藩主島津義弘は朝鮮での戦争で亡くなった、敵味方の人々のため慶長4年高野山に供養碑を造りました。
これは日本における赤十字精神の見本として世界各国に有名であります。
此処に造った碑は、前記の供養碑と同じ形、同じ大きさであります。


昭和28年12月25日 鹿児島市長 勝目 清

 

慰霊碑第14代鹿児島市長 勝目清氏

高麗陣敵味方戦死者供養碑

慰霊碑の手本である「高麗陣敵味方戦死者供養碑」は、高野山の島津家墓所の一角に建立され、和歌山県指定文化財となっています。
供養碑は高さ385cm、幅81.8cmの位牌形で、碑の中心に敵味方の兵士を供養する旨、その右側に敵、左側に味方の被害が刻まれています。これらは武士道の博愛精神の発露としても知られています。
また、明治41年、島津家子孫の忠重により、英訳した碑文を刻んだ碑も建てられています。

高麗陣敵味方戦死者供養碑

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