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明治時代の水道
(1)主要な経緯
明治5年(1872)7月14日
廃藩置県により冷水水道を県に移管
明治12年(1879)
政府が「地方税規則」を公布したことを機会に鹿児島市街地にある冷水水道について維持管理は従来通り県、使用者の給水、修繕に関する費用徴収事務は鹿児島市街の行政機関である鹿児島郡長で行うこととする。
明治22年(1889)4月1日
鹿児島市制施行(11,730戸 47,512人)
明治23年(1890)2月12日
我が国初の水道法規である水道条例が制定・公布
明治23年(1890)2月18日
冷水水道施設及び維持管理を鹿児島県から鹿児島市に移管
明治23年(1890)5月1日
鹿児島市飲水水道修築保存法及び費用徴収規則を公布
→水道修築や保存管理に要する費用を需要者に賦課することとする。
<明治23年頃の水道>
当時の水道はたいへん貴重品であった。使用口数は65カ所であったが、水量が少なく水道の分水は原則として不許可であった。特に分水を専用とするものは、市役所、県庁、裁判所など既設水道給水区域内にある官公署や学校などと一部市民で使用され、そのほとんどが酒造、みそ醤油製造工場に使われていた。しかも工場など新設し水道が必要となる所は、既設の使用者に多額の権利金を払い、その分水を利用したとしても水道施設の修繕費まで自弁であったので「貰(もら)い水」は予想以上の高額についたという。
「鹿児島百年」明治編(南日本新聞社刊)
明治36年(1903)10月1日
鹿児島市飲水水道規則を公布
→鹿児島市飲水水道修築保存法及び費用徴収規則を全面改正
(2)水道施設の築造・改修
明治27年・28年の日清戦争の結果、台湾が日本の統治下に置かれるようになると、鹿児島は沖縄・台湾航路の中継基地として貨客が増加し、肥薩鉄道の着工や県が10年計画で実施した県内道路網が完成するなどのため鹿児島港の改修問題が避けられなくなってきた。鹿児島市は県に対し、明治29年鹿児島港築港の改修を早期に計画するよう請願するとともに、この改修工事に伴う水道工事問題について市会で種々の論議がされ、明治32年市会に「水道布設調査委員会」が設置された。更に、明治33年になると「水道設計調査委員会」「水道布設供給区域調査委員会」が設けられた。
明治36年船舶給水を目的とする冷水水道改修工事の工事費が決定し、明治37年から2年がかりで城山配水池の新設工事と冷水水源地の改修工事が行われた。
第1水源地
第1水源地の池は、約5m四方、深さ約2mで、水底部はコンクリートを打ちその上をモルタル塗りとし、周囲の壁は小野石の堅硬石で造られている。湧水量は、1日約1800立方メートルである。
第2水源地
第2水源地は、岩盤の割れ目から水が湧き出す3カ所の湧水箇所に桝が設けられ、これらから水を集める集水桝から送水されることになっている。湧水量は、1日約440立方メートルである。
- 第1桝 縦約3.6m 横約1.2m 深さ約2.0m
- 第2桝 縦約1.8m 横約1.8m 深さ約2.1m
- 第3桝 縦約3.7m 横約1.2m 深さ約1.6m
- 集水桝 縦約0.9m 横約0.9m
接合桝
第1水源地からは鉄管で、第2水源地集水桝からは在来の石樋を改良修理し接合桝へ流入させ、接合桝に第1・第2水源の水を合流させた後、送水線路に連絡した。
接合桝~城山配水池間の送水管
当初、石樋管を改良修繕し使用する計画であったが、修繕不能であったため陶管に布設替えすることとなった。
配水池
城山配水池は、約18m四方、深さ約4mのコンクリート製で内側に厚さ15cmの小野産堅石が敷き詰められており、容量は約944立方メートルである。また、配水池にはゴミが落ちないように、温度の変化で水質が変わらないように木造亜鉛引き鉄板ぶきの屋根がつけられた。
なお、市街地における水道施設の改良整備は明治39年から始まっている。
当初の冷水第二水源地
(現在、冷水第一水源地)
第一水源湧水か所
接合桝
陶管
当時の配水池
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