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藩政時代の水道
(1)江戸薩摩藩邸の水道
島津家久がはじめて江戸に参府し、将軍秀忠に謁見したのは慶長12年(1607)であった。このとき家久は幕府から芝に邸宅を賜り、翌年鎌田政在に命じ屋敷を造らせた。つづいて慶長13年(1608)武蔵国豊島郡に、15年には桜田に、さらに光久が寛文9年(1669)高輪にそれぞれ藩邸を給せられている。藩は、これらの邸地に屋敷を造営し、桜田を上屋敷、芝を御居屋敷、高輪を下屋敷、田町を蔵屋敷とし、江戸在勤の家老をはじめ諸役を配し、幕府や国元との衝に当たらせている。
ところで当時の江戸における水道は、どうであったろうか。
日本における水道のはじまりは、天正18年(1590)、徳川家康が江戸に入る前、家臣大久保藤五郎に命じて上水を見立てさせている。藤五郎は小石川目白台下あたりの流れを引いて神田方面へ掘割を造り、流れを通し家康が江戸に入城する前3ヶ月の工期で完成させている。天正年間における江戸の最初の上水道であった。入城以後しだいに給水範囲を広げ、のちの神田上水に発展していった。
慶長8年(1603)江戸に幕府が開かれ、家光の時代になると諸大名の参勤交替制、正妻・嫡子の江戸在府制が定まり、徳川旗本8万騎といわれた直臣団の江戸居住、それらに伴う町人の集住などにより江戸湾入り海を埋め立て大がかりな町づくりが行われた。
その面積も30余町四方という広大な陸地が造成された。こうなると飲用水不足の対策が必要となった。神田上水は寛永6年(1629)ごろの完成と考えられるが、さらに4代家綱のとき、承応2年(1653)、玉川清右衛門・庄右衛門兄弟により、武蔵野を切り通し多摩川の水を江戸に引水する工事が完成し、さらに市街地の整備が進むと万治2年(1659)亀有水道が、翌3年には青山水道(赤坂・麻布・芝方面)、4年後の寛文4年(1664)には三田水道(下北沢・芝・麻布)、32年後の元禄9年(1696)には千川上水(本郷・下谷・浅草)の4系統の上水が新設されている。その頃の江戸の人口は約100万人を突破していたといわれ、水道の普及は市街地人口の約60%であったといわれている。
江戸における水道普及の中で、江戸薩摩藩邸にも水道が敷かれていたと考えられる。
当時、水道使用料は水銀(みずぎん)と呼ばれ、武家は所領の石高の割合、町方は小間割(地所の表間口間数)によって使用料を算定していた。
(2)鹿児島城下の水道のはじまり
享保6年(1721)に第22代当主となった島津継豊は江戸に育ち、水道の恩恵を享受し、水道には深い関心を持っていたと推察される。当時、城下町特に下町は、家久以来海岸を整備し、土地造成が進められ町家が建てられたが、甲突川の下流で寄洲(よりす)のような低湿地であるため、地下水の質が悪く、飲料水に事欠く状態であったと考えられる。また鶴丸城も築城以来本丸、二之丸等の整備が繰り返され、享保6年から、二之丸下屋敷を含む殿舎の工事が行われており、勢い城内の井戸では、水量が不足する状態であったものと推察される。
継豊の父吉貴が継豊に諮り、継豊の帰国を機会に、吉貴の年来の願望であった、他藩なみの江戸文化の導入によって、市民生活の安定を図るため水道の開削となったのではないかと推察されるのである。
江戸・玉川上水開削に遅れること69年目にして、鹿児島城下に水道の恩恵が潤ったことになる。
(3)冷水御用水道
冷水水道(延長約3km)は享保8年(1723)に開削され、藩政時代の冷水水源から城内までの送水管路は、現在の第1水源地から岩崎別邸の山際を貫き、長田神社境内から岩崎谷先端の高台溜池に流入し、本線は旧岩崎谷荘裏の分水嶺を流れ鹿児島本線岩崎谷隧道付近から城山抜穴と称せられる隧道を流れ、城内に送水され、城内の用水となり、その余水は二之丸矢来門から城下辻の札の高桝に送られ、さらに呉服町を経て、海岸や新しい下町方面の用水に使われたものと考えられる。
※給水方法
要所要所に石製の高桝(給水塔)を設置し、下流各地に作った石囲みの水だめに水を流し込むという簡単な施設で箱水給水と呼ばれ、人々はここにきて水をくんでいた。
また、享保年代における水道工事の材料はそのほとんどが石材であり、冷水水道には延長1,345mの耐圧石管が使われている。
※耐圧石管
低地から高地に水を送り込むため、水圧を利用できるように石をくり抜き、継ぎ目にも黒色粘土と石灰が利用されている。
なお、この冷水水道は、27代斉興の時代になると水源地は荒れ放題で、石樋からの漏水が激しくなったため、天保10年(1839)に送水路の大改修が行われている。
城山抜穴
隧道入口
水道石管(挿口)
水道石管(承口)
水道高桝
水道高桝
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